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悲劇の謎(妻) [乾いた愛でも]

引き続き、モーツァルトです。
私が一番悲しく思う記事ですね。
これも前回の「悲劇の謎(母)」が遠因でしょう。

アロイジアに失恋

モーツァルトが母と旅をしたときにドイツ、マンハイムに寄ります。そして父の紹介で写譜家フリードリーン・ヴェーバーと会うことになります。
そのときに知り合ったアロイジアは彼の子の4人姉妹の次女でした。(将来妻になったのは3女コンスタンツェ)
アロイジアは歌がうまく、後に一流の歌手になりました。
このときはまだ彼女は18歳。美貌でもあり、モーツァルトはこのときにすでに片思いをするようになります。
またモーツァルトは彼女のために曲も作り、アロジアはだんだん実力を出して歌手としての道を歩むことになり、まことにいいコンビでした。
ところが母にあたるマリーア・ツェシィーリアはまだ青二才のモーツァルトとの結婚は許さなかったようです。
突然アロイジアは金持ちの所に嫁ぎます。(ここら辺は海老沢氏以外の書物で記憶がうすいですが)
こうしてモーツァルトは失恋します。モーツァルトは一日中泣いてすごした、と父宛の手紙に記されています。
しかしアロイジアとの音楽関係だけはモーツァルトが結婚した後も続いたようです。
実はここら辺も母マリーア・ツェシィーリアの打算性がみられます。
ザルツブルグとの決別
パリで母も失い、失恋し、また就職活動も失敗して23歳の時故郷ザルツブルグに戻ります。
そしてなんとか父の紹介で宮廷オルガニストという職につきます。
でも度重なる旅の失敗もあってモーツァルトはいよいよ父との対立が増したようです。
年収は今の価値で言うなら200万円くらいはもらえたと思いますが、父との対立、宮廷や大司教らの冷たい仕打ちにあい、ふとしたことで大司教とケンカをする事態に陥ります。
この冷たい仕打ちはいろいろ要因がありましたが、そもそもはではないかと思います。
だいたい我が子はこんな田舎のザルツブルグで音楽をするような子ではない、と旅をさせていたからだと思うのです。確かにレーオポルトは副学長ですが、日頃からそんな偏見の目でザルツブルグを見ていたから周りも当然冷たくなりますよね。
大げんかの末モーツァルトはザルツブルグと決別します。
そして裸一貫、ウィーンで宮廷にも仕えず、自由な音楽家となります。
当時教会や宮廷に仕えてこそ音楽家でした。当然父はびっくり大仰天でした。執拗な父の反対を押しのけてモーツァルトは独立職業音楽家の第一号となりました。
自由な精神を求めて!
コンスタンツェとの結婚
アロイジアとの結婚はできなかったけれど、マンハイムからウィーンへ移住してきたこの一家とはつき合いが続きました。しかし、父は手紙で何度もあの一家とは「つき合うな!」と忠告をしつづけます。これに関しては父の意見に従った方が良かったのに、と私は思います。
あの母マリーア・ツェシィリーアは決して器量のよくない売れ残りそうなコンスタンツェを巧みにモーツァルトに近づけます。
モーツァルトはその術策に見事にはまり、次第にコンスタンツェを本当に愛するようになります。
父にもコンスタンツェとの結婚を許してほしいと手紙を書きますが、父も姉も猛反対でした。
マリーア・ツェシィーリアは人の良いモーツァルトに結婚契約書に署名を要求しています。
それは、「3年以内に結婚すること。もし結婚が不可能になったときは違約金として年200万円支払うこと。」というひどいものでした。
結婚の意志の固いモーツァルトは何の抵抗もなく署名します。
そして26歳、モーツァルトは父、姉の猛反対(これによってモーツァルト家と縁を切るというような)にもかかわらず結婚します。
悪妻コンスタンツェ
結婚以前、父にコンスタンツェのことを「けっして美しくはないが気だてが良く、一番器用です。」と手紙に書いてはいます。
海老沢氏の文をそのまま示します。
「コンスタンツェはモーツァルトが見通したように、気だてが良く、善良ではあった。けれどもこうした性格はモーツァルトの芸術家としての生活にも、人間としての生活にも、直接にはなんの助けともならなかった。ただ、モーツァルトは、世間の常識というか、われわれの家庭生活の把握の仕方、理解の仕方からすると、家政の能力に乏しく、計画的な家庭生活をいとなんでいく力をもたなかった、いわば悪妻のコンスタンツェをただひたすら愛しぬいた。」と。
ここで私は許されないかも知れませんがモーツァルトの母を思い出すのです。
やはりコンスタンツェは母に似ていたのでは、と。
母の愛に薄かったモーツァルトの自然な結果かと。
この結婚により、モーツァルトをあと10年という寿命にしたのかも知れません。
もう30年も前のことでしょう。
当時私が手に入れた最初のパソコンがソニーのMSX。
それを使ってアレンジしたのがこの曲です。
さらにそれを15年ほど前RolandoのSC-8820でアレンジしたのが上のMp3です。

曲はピアノ協奏曲24番の二楽章から。

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悲劇の謎(母) [乾いた愛でも]

園芸ばかりなので音楽記事です。
過去のホームページに連載した「乾いた愛でも」の再現です。
すでに「悲劇の謎(父)」までは再現できておりましたがその後放置でした。
がんばって最後まで再現したいと思います。

「乾いた愛」の始まりでは?


母、アンナ・マリーア
私はこの母がモーツァルトの人格を知る上の重要人物と思っています。
でも何を調べても残念ながら資料が乏しすぎるのです。
海老沢氏は
「家事に熱心で忠実に夫に従い、夫や子供にひたすら愛情を捧げた。」と言う反面、
「モーツァルトの度重なる実生活上の失敗は母親譲りでは。」とも書いています。
そう、男の子は母親の影響が大きいと思うのです。
モーツァルトは後に、本当の恋は実らず、その妹(姉よりも醜く、性格も良くない、言といわれている)コンスタンツェと結婚しました。
悪妻と言われたあのコンスタンツェ。
モーツァルトは陰謀によって無理矢理結婚させられた、姉との大失恋でやけくそで結婚した、という説が正しいとは思うのですが、6人もの子供をもうけています。
私はこのコンスタンツエが母親に似ていたのでは、と思うのです。
よく自分の母親と似た女性にあこがれる、と言われますよね。
モーツァルトは21歳の時母と旅をします。
いつも同行する父レーオポルトが行かなかったのは許可が下りなかったから、と言われていましたが、その後許可は下りていたことがわかっています。
あくまで私の推定ですが、モーツァルトが拒んだのでは、と思うのです。
いわゆる乳離れ(父離れ)では。21歳ですからね。
ところが! 大きな失敗が
この旅のため父は就職活動のための沢山の紹介状を用意していたのですが、母はこれをすべて置き忘れたまま出かけたのです!
正直に言って、こんな母親っているでしょうか?
モーツァルト一人で旅をさせなかったのはこういう紹介状の管理や父との連絡を密にするためだったと思うからです。
後を知ると、この不幸がモーツァルトの運命を決めた、と言っても過言ではありませんでした。
(紹介状がないため重要人物に会えなかった)
母は旅の途中、馬車から落ちたのが原因で亡くなりました
さぞかし、父レーオポルトはこの旅を恨んだことでしょう。何のためにお前が着いていったんだと。。。。
モーツァルトの死後、すぐにデスマスクが作られましたが、妻のコンスタンツェはそれを落として割ってしまいます。
私は、母の失敗とコンスタンツェのこの失敗が結びついて仕方がありません。
そしてもう一つ、
モーツァルトは本当に母親の深い愛で育ったんだろうかと・・・・
5歳から旅を続けたモーツァルトに・・・

 

データーの都合で途中までです。

つづく


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悲劇の謎(父) [乾いた愛でも]

<乾いた愛でも>~コウ流モーツァルト感 (2003年記事の再掲載)

さて、前回「人間性との出会い(1)」を書いたので今回は「人間性との出会い(2)」のはずですが、これは最後に書くことにしました。
なぜなら、「人間性との出会い(2)」は私のモーツァルト感の結論になるからです。
なぜそう感じるのか、そのわけを示したいのです。
そしてタイトルにもある「乾いた愛でも」の意味を書きたいのです。

それには三つあります。

悲劇の謎(父)
悲劇の謎(母)
悲劇の謎(死)

です。

ということで、今日は悲劇の謎(父)を書きます。


父、レーオポルト・モーツァルト
オーストリァのザルツブルグ大司教に仕える宮廷音楽家でした。
作曲能力もあって宮廷作曲家の称号も受けており、何より彼の<ヴァイオリン奏法>はエマニエル・バッハの<クラヴィア奏法>と並ぶくらい貴重な文献と言われています。

でも楽団の副学長止まりで空位が出来ても彼は楽長になれませんでした。
彼はすぐれた教養の持ち主で勤勉で几帳面。とくに敬虔なカトリック信者として生涯を貫いたとされています。

この定説に少し疑問があります。
そんなに真面目なのに何故空位の楽長になれなかったのでしょうか?
普通なら副学長が空位を埋めます。

さて肝心の父親としてどうだったのでしょうか。次の説があります。

◎天才を天才ならしめた理想的な父親説
◎名誉欲と虚栄心に富み、偏狭で疑い深い男だった。

さてどちらなんでしょう?
私は後者を取りたいです。でも我が敬愛する著者海老沢敏氏は前者を取っています。

コウ流解明

父は幼いモーツァルトを5才から10年間もヨーロッパ各地に一緒に旅をしています。
この年齢は第一伸張期にあたり肉体、精神ともとても大切なときです。
当時の交通機関からしてきわめて有害な旅であることは明白です。

健康面の発育不良、精神面の発育不良の原因はこの旅でした。
これは海老沢氏も認めております。
で、旅のメインイベントは見せ物の猿回しのようなものだったことが知られています。

それは、
モーツァルトにクラヴィアに布をかぶせて弾かせるのです。
右手人差し指一本でも正確に弾いたようです。
この事は当時の各地の新聞などに見せ物イベントとして記録されているのです。
”どうだ! わしの息子は!”こう言いたかったのでしょうか。
本当に教養があってモーツァルトの成長のためを考えていた父親でしょうか?
私が父親ならとても考えられません!

故郷ザルツブルグには音楽史上にも残る作曲家、音楽家はたくさんいたのです。
あのエーゼフ・ハイドンの弟、ミハエル・ハイドンも!
もう少し成長するまで彼らに任せて十分すぎるはずです。

父レーオポルトは自分の上を行く彼らを我が子で見返してやりたかったのでは・・・
そして自分だけの手で!
私はそう思えてなりません。

天才を天才ならしめた事も事実です。
でも天才だからこそ、そこまでしない方が良かったのです。

モーツァルトが本当に書きたかった音楽、父はわかっていたでしょうか。
父レーオポルトの作る曲は「標題音楽(描写的)」が中心でしたがモーツァルトがそれを真似した曲はありません。
そして受けだけを狙ったような「お気に入り」になるための曲が多すぎるのも父のせいかもしれません。
売れてこその作曲家かもしれませんが、健康で彼の好きなようにさせてやれば100年先の音楽まで書いた気がするのです。

コウの「たわごと」に過ぎないでしょうか・・・

つづく


人間性との出会い(1) [乾いた愛でも]

<乾いた愛でも>~モーツァルト  (2003年記の再掲載)

あの天使のような美しい曲を作ったモーツァルトはどんな人間性をしていたのでしょう。
映画「アマデウス」のような人間だったんでしょうか?

分別のない息子(アインシュタイン
永遠の小児、愚劣な生涯(小林秀雄

情熱的なモーツァルトの音楽愛好家であったお二人ですらこの評価。

ほかに、

★放浪癖
★借金だらけの浪費家
★社会に疎く、精神年齢が低い
★浮気性
★その他

ほんとうなんですか!

以下に海老沢敏氏の見解を紹介します。

本当のモーツァルトは残された書簡でしか知ることは出来ない。
しかし、
モーツァルトは旅に出ているときはこまめに手紙を書いたが、ザルツブルグに戻って家族と一緒の時は手紙を書くはずがないので資料が乏しい。
またウィーン時代は父の反対を押し切って独立したり、コンスタンツェと結婚したりで絶縁状態だったから手紙のやりとりも少ない。

従って、ニッセンやコンスタンツェの書いた「モーツァルト伝」は貴重であるが、参考程度にしたい。


と冷静に解説しております。
(ニッセンとはモーツァルトの死後、コンスタンツェと再婚した人)

ではいろんなエピソード、伝説はどうして残っているのでしょうか?

モーツァルトに関する著書

シュリヒテグロルの「モーツァルト」
モーツァルトを愛好する大学教授で最初にモーツァルトに関する著書を出しました。
彼は書くに当たって姉のナンネル、モーツァルトの最初の指導者とも言えるシャハトナー (トランペット、ヴァイオリン奏者)にモーツァルトに関する質問状を送り、その回答をもとに書いています。
これは信頼性は高いと思います。

モーツァルトの神童ぶりや、エピソードが伝えられたのはこの著書によります。
しかし、それはやはりモーツァルトの幼少期であり、成人してからのことはコンスタンツェに質問状を送っています。

本当は姉のナンネルにすべてを語ってもらいたいのですが、父に味方をするナンネルにとってもモーツァルトとは絶縁状態でした。
早くして母を亡くし、父の面倒を見てきたため婚期も遅れ、後妻となっています。
本当に仲のいい姉弟だったんですが・・・

結局、成人してからはコンスタンツェに聞くしかなかったようです。


ニッセン、コンスタンツェ
コンスタンツェはモーツァルトの死後すぐにニッセンと再婚します。
彼が「モーツァルト伝」を書き始めたのですが、彼も死亡し、コンスタンツェが完成しています。
なぜかコンスタンツェはモーツァルトの独身時代の書簡類も手に入れております。


他にも
いろいろな著書はあるのですが、ほとんど小断片的で、しかもシュリヒテグロル、ニッセン、コンスタンツェを元にしたものがほとんどです。


ということは・・・・
結局、妻であるはずのコンスタンツェなんですね。
モーツァルトの悪口を残したのは。
たとえそれが真実であったにしても死んだ自分の夫の悪口を書くってどうなんでしょうか。
よほどのことが無い限りそんな妻はいませんよね。
そう、よほどのことがあったんです。
それはまたのお楽しみに。

そしてアインシュタインも小林秀雄もそれを信じたのですね。

天使のような音楽を書く超越した天才が、普通の人生を送った人にも劣る分別の無い男で愚劣な生涯・・・・

だれでも飛びつきそうな格好のストーリーですね。


「人間性との出会い(2)」につづく


天才との出会い [乾いた愛でも]

<渇いた愛でも> 

天才との出会い  (2003年記)


モーツァルトってどれだけ天才なんでしょう
厳しく追及しよう!

3歳の時にピアノに向かい、小さな手で3度の和音をたたいた
天才の証明にはならないと思っています。
姉のナンネルは父レーオポルトに毎日スパルタレッスンを受けていたいました。3歳のモーツァルトも当然それを見ていたわけで視覚的に覚えるのはどんな子供も同じだと思うのですが。
 
4歳から勉強を初め、30分教えただけでメヌエットを弾いた
父はナンネルと同じ練習帳をモーツァルトに使っています。耳、あるいは視覚的に姉からすでに学んでいたはずです。確かにすぐれてはいますが天才とは決めつけがたいです。
だいたい、同じことをさせたら下の子の方が何でも早いと思いませんか?
どんな父も、「我が子は天才だ!」って思ってしまうんですよね。
 
8分の一低い音程を聞き分けた
父の楽団の友人でシャハトナーは幼少のモーツァルトに影響を与えた最初の人物です。彼の使うバイオリンは柔らかい音色で、モーツァルトは<バターのバイオリン>と名付けていましたが、モーツァルトがある日それを弾いてみたとき、「おじさん、音程が8分の一低いよ。」と言ったそうです。後で父が調べるとモーツァルトが正しかったこのがわかり、父はびっくりしたといいます。
これは絶対音感の問題で天才と言うほどでもないと思います。
うーん、でもまぁ、8分の一はすごいですなぁ・・・・
 
布切れをかぶせたピアノを正確に弾いた
6歳からヨーロッパ各地の旅が始まりますが、その見せ物はこのピアノ演奏でした。
先ほどから書こうとしていますが、子供というのは頭で行動したり考えたりしないで、視覚的、聴覚的な感覚のみで行うものです。
英才教育を受けているモーツァルトには布の下の鍵盤は見えているのです。
当時はこの見せ物で「神童」と騒いでいたんですね。
 
門外不出の秘曲を一度聴いただけで正確に譜面にした
イタリア旅行14歳の時。ヴァチカン宮殿付属の礼拝堂で歌われる名曲「ミゼレーレ」は礼拝堂以外では演奏が許されず、楽譜も写すことが許されていませんでした。モーツァルトはこの9声二重合唱を一度聴いただけで完璧に譜面にすることができたといいます。その天才ぶりにローマ教皇から<黄金拍車>勲章を授かるくらいでした。
 
これには確かに脱帽しますが、このときすでに70曲以上も作曲をしていて当時の曲のパターンは父から十分に教えられています。まして聖歌となればなおさらでしょう。
 
子供というのは大人では考えつかない才能を持つものです。
私ごとですが、私の娘が5歳くらいの時50pほどの同じジグソーパズルを何度も何度もしていましたが、一番最初に僕が適当に一切れを渡すと瞬時にそれのあるべき位置に置いたのでびっくりしたものです。
これは子供の「残像能力」によるもので頭の中には出来上がり図があるのです。一片をを渡すとその「残像」に合う場所が脳裏に浮かんで見えるのです。
子供とはそんなものだと思います。
モーツァルトも音楽の「残像」が一度聞いただけでいつまでも存在してしていたんです。
また「残像」に比較的なりやすい曲だったのではないでしょうか。
従ってこれもすごいことはすごいが天才とまでは言い難いですネ。
 
14歳でアカデーミア・フィラルモニカの会員になる
厳格な対位法の試験で20歳以上が会員の資格となる名誉あるものを特別に受けさせてもらい、普通の人では3時間でも仕上げられないが、モーツァルトは一時間もかからずに仕上げたといいます。
IQ190って本当かも・・・
うーん、これはやっぱり天才かなぁ・・・  突っ込むところがないっていうか、よくわからないっすナ。
 
弦楽四重奏「ハイドンセット」
一ヶ月もあれば交響曲でも作れるモーツァルトが全6曲に2年以上もかけているので普通ではないことが伺えます。
そして専門家はこの四重奏に使われた技法は誰もまねが出来ないほど斬新で難しい、と言っています。
私にはとうてい理解は出来ませんが、ここに天才あり! と言われたら信じる他は無いですなぁ。
 
確かに第一曲K387)のフィナーレで、真ん中少し前からのフーガや対位法や和声法を半音階ですべらせているところ、息を呑みます。


  過去記より

そしてあの第6曲不協和音」は一部とは言え、なんと無調音楽です。
二台のためのフーガ、ピアノソナタハ短調(K426)が元になっているんですが、聴衆なんか眼中にないとんでもない作品でした。

  過去記事より

モーツァルトはこんな時代にすでに無調音楽もやったんですね。
和声法を放棄した現代音楽のシューンベルグたちとは根本が違うように思います。
天才を信じる他はなさそう。かなぁ
 
真の天才
ま、私には上のような難しい技術のことはわからないですナ。
私が思う天才は彼の人間からあふれる天使のような美しさだと思っています。
確かにお気に入りになるためにもたくさんの曲を書いたし、当時も同じような作曲家はたくさんいました。
でも美しさが違うんです。取り立てることもない旋律はモーツァルトの巧みな進行によって天使のような美しさに変わるのです。
 
この誰もまねが出来ない美しさこそモーツァルトの真の天才性と思っています。

つづく


第二の出会い [乾いた愛でも]

続いて「渇いた愛でも(2003年6月記)」からです。

第二の出会い・・・それは 海老沢敏氏

ハフナー・セレナーデのあと聴いたのがヴァイオリン協奏曲3番です。
モーツァルトはヴァイオリン協奏曲を5曲書いていて、これらは長い旅が終わり故郷に戻った5年間の間に作られています。
およそ15歳から20歳まで。
モーツァルトがこの故郷にいた5年間がもっとも幸せなときだったのではないでしょうか。

でも帰郷当時しばらくは短調の弦楽四重奏や、有名な交響曲25番ト短調があり、激しい、あるいは悲しい思いがこもった名曲や不安定な曲が作られ、このヴァイオリン協奏曲3番からころっと音楽が変わってきたようです。

長調でフランス風な、あるいはギャラントスタイルといわれるものに・・・・

そう、まさに心が落ち着き、優しいモーツァルトが戻ったように思います。
この3番の後にハフナー・セレナードが生まれました。

モーツァルトが少しずつでも心身共に成長しつつあるときだったと思います。
すなわち僕は一番すばらしい彼の時期から聴くことが出来たのです。

私が苦境から脱出するにもっとも適した音楽のわけだったのです!

モーツァルトが18,19歳の時。
そう、まさに私が苦しんでいた時と同じ年齢でした。

確かそのようにNHKの解説で海老沢氏が語っていて感銘を受けたのです。

下はベタ打ちのMIDIファイルをMp3にしたものです。

バイオリン協奏曲第3番(K216)一楽章





海老沢敏さんの著書↓

モーツァルト
wolfgang amadeus mozart /1756/91
海老沢敏・音楽友之社   大音楽家・人と作品  S40/9 より



モーツァルトのことを書いている著書は山ほどありますが、海老沢氏のモーツァルトが一番客観的、かつ正確ではないでしょうか。

モーツァルトの生涯や性格を知るにはモーツァルトや彼の家族の手紙(書簡)しか無いだろうと海老沢氏は言っています。

実はモーツァルトの妻コンスタンツェはモーツァルトの死後ニッセンという男と再婚しています。このニッセンはモーツァルトの伝記を書き始めましたが、ニッセンも死に、コンスタンツェがこの伝記をまとめました。
いずれ書きますが、この伝記は信用出来ないものと私は思っています。

理由は三つあります。
一つはモーツアルトはどこに埋葬されたのかも書いていないこと。
  普通なら葬儀はどうだったかとか、その後でもお参りをしたとか書くのでは?
二つ目はモーツアルトのデスマスクを何故壊したのかも書いていないこと。
  デスマスクが取られたのは事実でした。この大切なものをどうしたのか?
三つ目はモーツァルトが妻に送った手紙の多数が無いこと。
  自分に不利な手紙は処分したようです。
そんな妻がいますか?

これにより、誤解、あるいは曲解されたモーツァルト像が出来上がりました。
この伝記が元で妻は恩給を受け豊かに暮らせました。
また皮肉なことにモーツァルトの評価も上がったようです。

海老沢氏はこの伝記は貴重な資料、と言うにとどまっています。

さらに海老沢氏の著書の良いところはモーツァルトの年表とともに、他の音楽家の様子、歴史的な社会の背景とを照らし合わせて書いています。

そして、作品の紹介も私情を入れず、「美しいといわれている」、とか、「・・・で有名」、という程度にしています。

こういうところに海老沢氏が冷静にモーツァルトを書こうとしているのがわかりました。

故にこの著書により、モーツァルトの音楽がより好きになった大きな出会いの一つであったと思います。

つづく


モーツァルトとの出会い [乾いた愛でも]

<渇いた愛でも>
スタートです。
前回も書きましたが昔にホームページで書いたものなので再掲載になります。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

○ 失恋と浪人
私にもこんな時期があったのですねぇ。
結局一言も言葉を交わさず卒業してしまい、片思いの失恋に落ち込み、しかも受験に失敗して浪人が決定しました。
予備校も四月からで何もせず、何もする気がなくブラブラと・・・そんな毎日でした。

○ 映画「アンネの日記」
春休み、妹とその友達と私でこの映画を見に行きました。
その映画全体に流れていた音楽はあのチャイコフスキーの交響曲6番「悲愴」でした。
悲惨な悲愴な物語に余りにもピッタリで、そして私の今の心境をしっかり捉えてくれる曲はこれだ、と思いました。
家に帰って何度も聴きました。

○ 癒してくれる音楽
どっぷりと悲しみに浸れるこの「悲愴」。 でも悲しみが深すぎて・・・ 
また、浪人という苦しみにはピッタリだけど、はかない失恋には余りにも希望も何もかも無さ過ぎるように思えました。
実は、もし私が一言声をかけていれば・・・ そしてまだ希望が有るかも知れない・・・ とか、まだ未練があったのです。
失恋した方はこんな心境ご存じでしょう(笑)

○ やっぱりベートーベン
この時代は何を言ってもベートーベンが一番でした。ベートーベンのすごいところは何を聴いても私の期待を裏切らないことでした。
でもこの時の私の心境には余りにも崇高すぎたのです。
さぁ、立ち直るぞ! という感じ。
でも・・・まだ残る未練の面倒までは見てくれないんです。

○ 他の音楽
シューベルトの音楽はかなり癒してくれるものでした。シューベルト自身も失恋の大経験者。もともと好きだったしまさにピッタリでした。
メンデルスゾーンは甘美過ぎるし・・・
そう、もうシューベルトの他には私の気持ちをわかってくれる音楽は無い・・・
そう思っていました、が・・・

○ ハフナー・セレナーデ
ある日、FM放送で流れていた音楽が「ハフナー・セレナーデ」でした。
ユージン・メニューインのバイオリンと指揮でした。
モーツァルトであることはすぐにわかりました。
あぁ、いつものモーツァルトかって・・・
でも何かが違うのです!
ただ単にメロディーが美しいだけではないのです!
きれいだなぁ、と思って聴いているとすぐ変化するのです。全く明るくなったり・・・
この時開眼したのです。
モーツァルトは美しさ、甘さはどんどん提供してくれるが何時までも甘えることをさせないのです!
甘えようとするとすぐに別の所に連れていかれる・・・・
別の所とはモーツァルトの世界、神の世界なのかも知れませんね。

○ 一言でいうと客観的
唯物的っていうか、甘えきることを許さない音楽と思いました。
どんな悲しいときでも苦しいときでもそれは一時。
時は流れ常に新しい物に目を向けていくべきだと悟りました。

この悟りは私の人格に大きな影響を与えたと思います。

○ さらば失恋
月は遠くで見るから美しい・・・近寄らない方がいい・・・・
それでスカッとしたのです。
人生はこうでなければ、と。
ありがとうモーツァルト。

詳しくは記事、ハフナーセレナーデ


渇いた愛でも/はじめに [乾いた愛でも]

クラシック音楽が好きになったのは中学2年生ごろからです。
学校の音楽の時間にいろいろ鑑賞させてもらったのがきっかけですが最初に買ったレコードがラヴェルの「ボレロ」ですので少し変わっていますね。
ユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィア管でした。
それからはチャイコフスキーをはじめ一般的なクラシックファンとなっていきました。
高校に入るころはベートーベン、シューベルトに熱中。

さて、
モーツァルトです。
過去のブログ、ハフナーセレナーデにも書きましたが、本当にモーツァルトが好きになったのは高校を卒業したときからでした。

タイトルにある「渇いた愛でも」は7,8年前に自分のホームページに書いたものです。
出来栄えは別として真剣に書いた数少ない記事でした。
次回から、
出会い、天才性、人間性、悲劇などについて再掲載してみたいと思います。

みなさんのモーツァルト感も変わるかもしれませんよ。

 

下の画像は Wikipedia より拝借しました。

Mozart1.jpg


モーツァルトの幼少時代

Mozart2.jpg

 

1777年 Giovanni Battista Martiniの依頼による

Mozart3.jpg

 

1789年の肖像画

Mozart4.jpg

 

バーバラ・クラフトによる肖像画(1819年。
モーツァルトの死後に想像で描かれた)
最も一般的な肖像画だと思います。

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